スピッツが好きだ。
中学一年の時に同じクラスの友人がベストアルバムを貸してくれたのが始まりだった。寝床でCDをかけて、家族が横で寝ている中ヘッドフォンで聴いた。裏面のリストを見ると、知っている曲もちらほらあった。出逢いは突然に。4曲名の「惑星のかけら」。ほしのかけら、と読む。しょっぱなからガツンとヘビーなギターが入る。びっくりする。サビはこうだ。
骨の髄まで愛してよ
惑星のかけら
骨の髄まで愛してよ
僕に傷付いてよ
衝撃だった。その日はそれをエンドレスでリピートして、いつの間に眠っていた。
彼らはロックとポップの中間を、ゆらゆらしながらひた走ってゆく。メロディラインと歌詞のマッチング&アンバランスがたまらなく不穏で愛おしい。初めてスピッツを聴くという諸君にはまず「さざなみCD」と「ハチミツ」というアルバムをオススメしよう。もう少しロックが好きだという方は「三日月ロック」。名盤中の名盤。そもそもあまり音楽を聴かないという人には「CYCLE HITS 1991-1997」(ベストアルバム)もしくは「とげまる」。
私はどれが好きかというと本当に迷う。最新盤「醒めない」は本当に仕上がっている。多分一番聴いている。結局自分で買ってまさにそのときに延々に聴いていたアルバムが永遠に一番なんだろう。でも全部好い。人気が無いけど「スーベニア」とかね。個人的にはセットリストだけでにやにやしてしまう。
スピッツが好きな人は、少なくとも一度は、スピッツに救われた経験を持っていると思う。わたしの友人は、大学受験の前日にホテルで眠れなくなって焦って、音楽を流してかかったのがスピッツで、聴いているうちにすっと眠れたそうだ。わたしの場合はいつも本番前に「小屋入り前夜」というスピッツだけで選んだプレイリストを聴く。その時々で入れる曲は違うけれど、例えば「運命の人」。「運命の人」はこんな始まりだ。
バスの揺れ方で人生の意味がわかった日曜日
でもさ君は運命の人だから 強く手を握るよ
サビはこう。
走る 遥か この星の果てまで
悪あがきでも呼吸しながら 君を乗せてゆく
アイニージュー あえて無料のユートピアも
汚れた靴で通り過ぎるのさ 自力で見つけよう神様
この曲を聴いて、わたしはなぜか「ああ、この二人はバスに乗りながら死ぬんやな」って思ってしまって、聴くたびに泣きそうになる。Cメロはこうだ。
神様 神様 神様 君となら…
このまま このまま このまま 君となら…
なんだこの歌。いざ書いてみるとすごい歌詞だ。スピッツの歌詞の秀逸さはフレーズに現れる。日々の生活の中でそのフレーズがぶわっと蘇る瞬間があって、歌詞の意味を心から悟るのだ。自分なりの解釈が肌に落ちて来る感じだ。好きな歌詞を挙げる。
振り向けば優しさに飢えた優しげな時代で (スピカ)
美人じゃない魔法もない バカな君が好きさ
途中から変わっても すべて許してやろう (夢追い虫)
うめぼしたべたい
うめぼしたべたい僕は 今すぐ君に会いたい (うめぼし)
君を不幸にできるのは 宇宙でただひとりだけ (8823)
君のおっぱいは世界一 君のおっぱいは世界一
もうこれ以上の生きることの喜びなんていらない
あしたもここで君と会えたらいいな (おっぱい)
ハローハローハロー よろしくね
繋がってる命に甘えて (ガーベラ)
ごめんなさい 理想の世界じゃないけど 大丈夫そうなんで (君は太陽)
明日とか未来のことを 好きになりたいな少しでも (群青)
進化する前に戻って なにもかもに感動しよう
その眼差しに刺さりたい (恋する凡人)
幸せになってな ただ幸せになってな
あの日の涙がネタになるくらいに
間違ったっていいのに ほら こだわりが過ぎて
君がコケないように僕は祈るのだ (子グマ!子グマ!)
現は見つつ 夢から覚めず もう一度 (漣)
終わることなどないのだと 強く思い込んでれば
誰かのせいにしなくても どうにかやっていけます (謝々!)
いつも仲良しでいいよねって言われて でもほんとはブルーになってた
あれは恋だった (仲良し)
憧れたりコケにしたり愛おしい二文字
君の名前つけた人はすごくセンスがいい (ナサケモノ)
猫になりたい 言葉ははかない
消えないようにキズつけてあげるよ (猫になりたい)
君が世界だと気付いた日から 胸の大地は回り始めた (日なたの窓に憧れて)
最低の君を忘れない 悲しい噂は信じない 不死身のビーナス明日も風まかせ (不死身のビーナス)
どうか正夢 君と会えたら
何から話そう 笑ってほしい (正夢)
君に夢中で泣きたい (幻のドラゴン)
抜け出したい気持ちなら桜が咲くたび現れる わかってくれるかな?君なら (三日月ロック その3)
あと歌詞全文書きたいくらいなのはミカンズのテーマ。ぐっと背中を押される。
一人称
スピッツの歌詞は一人称の書き分けがある。わかりやすいのは僕or俺。僕の方が多いけど、俺って言い切る歌詞もある。ちょっと意外かもしれない。俺って言われるとやはりどきっとする。文法が若干変わる感覚すらある。一人称ってすごく大事な要素だ、と思う。
たとえば台本を書くときは一人称には非常に気を遣う。友人がどんな一人称を使っているか気になるし、小説や漫画やアニメのキャラクターの一人称を妙に覚えている。ちょっと珍しい一人称を使っている作品とかたまにあるけど、一人称にキャラクターを頼りきっているとちょっと残念に思ってしまう。ボーイッシュだからといって一人称を「僕」にするとか、あああああああって叫びたい。「わたくし」「拙者」「我輩」「おいら」「あたし」「わらわ」「うち」「自分」「わたくしめ」「あちし」「小生」などなど。その人物の「自己認識の表現」なのか、「他者から見られたい自分自身の演出」なのかを常に見つめる必要がある。たとえば高校の先生、遠藤先生はふだん「俺」で人前に出ると「僕」だった。斎藤先生は「俺」で「私」だった。関先生は「俺」、「僕」と「自分」だったと思う。須藤先生は「僕」と「私」。湯沢先生はすべて「私」だ。
わたしはふだんから「わたし」もしくは「自分」をつかう。たまに、口をついて「ぼく」といってしまうときがある。そういえば昔「ぼくちゃん」と自称していたなとかいう黒歴史はほうっておいて、たぶん、自分自身と距離を取りたいときに無意識にやっているんだろう。違和感によって距離をうむ。少しでも客観的になって傷つかまいとする。ふだん使わない一人称をつかうと乗り切れることがたまにあるよ。参考になる気がしないけど、やってみてね。
選択
好きな物を並べると、「仲の良い友達遍歴」がわかるくらい、人に影響を受けがちだ。たいがいのものはそのとき一番仲が良かった人や好きだった人の好きな物だ。同じ世界見たさに足を踏み入れたパターンが多い。わたし自身が選択したものなんてほとんどない。ひとからの影響でないものは、もはや物心つく前のことだったりして自分で選択などしていない。自分のことを自分で選択できるなんて、ほとんど嘘だと思っているんです。実は。よしもとばななの『キッチン』に確か、そういう一節がある。分かれ道がきて、そのとき自分が選ぶとおもっているけれど、本当はそうじゃなくて、その分かれ道にたどりつくまでの自分の呼吸の積み重ねで、選ばされているし、選択肢など本当は無いんだ、というような内容。自己責任というのは「ひとは自分のことを自分で選択できる」という前提によって成り立つけど、だからわたしは自己責任という概念の簡略な流用をとても憎む。自己選択の場面というのは、実際にはほとんど転がっていないからだ。けっして運命論じゃなくて、自分への外からの力の種類と強さはできるだけ多く知っておいたほうがいいっていう実感がある、そういう話だ。
わたしは「好きな人が好きなもの」で自分が出来上がっているとおもっている。その要素の組み合わせが自分自身だ。この理論だと、生きていくだけでじわじわとわたしの「わたしらしさ」は向上していくことになる。ね。気楽で良いでしょ。自分らしい自分というのはいつだって今ここに存在している君自身に他ならないのだ。
いかがでしょうか。繋がったようで繋がらない、テーマは「一人称と選択とスピッツ」でした。興味をもったひとはとにかく聴いてみてね。そういえば、テーマを募集するよ。よかったらコメントに「滔々と語ってほしいテーマ」をつけてください。必ずしも採用されるとは限りません。あらかじめご了承を。ではでは。今日も、いい夢を。
次のテーマは「アラビア語」です。その次は「エンカウント」です。いい夢をって本文で言ってしまったね。いい朝を。
スピッツが好きな人は、少なくとも一度は、スピッツに救われた経験を持っていると思う。わたしの友人は、大学受験の前日にホテルで眠れなくなって焦って、音楽を流してかかったのがスピッツで、聴いているうちにすっと眠れたそうだ。わたしの場合はいつも本番前に「小屋入り前夜」というスピッツだけで選んだプレイリストを聴く。その時々で入れる曲は違うけれど、例えば「運命の人」。「運命の人」はこんな始まりだ。
バスの揺れ方で人生の意味がわかった日曜日
でもさ君は運命の人だから 強く手を握るよ
サビはこう。
走る 遥か この星の果てまで
悪あがきでも呼吸しながら 君を乗せてゆく
アイニージュー あえて無料のユートピアも
汚れた靴で通り過ぎるのさ 自力で見つけよう神様
この曲を聴いて、わたしはなぜか「ああ、この二人はバスに乗りながら死ぬんやな」って思ってしまって、聴くたびに泣きそうになる。Cメロはこうだ。
神様 神様 神様 君となら…
このまま このまま このまま 君となら…
なんだこの歌。いざ書いてみるとすごい歌詞だ。スピッツの歌詞の秀逸さはフレーズに現れる。日々の生活の中でそのフレーズがぶわっと蘇る瞬間があって、歌詞の意味を心から悟るのだ。自分なりの解釈が肌に落ちて来る感じだ。好きな歌詞を挙げる。
振り向けば優しさに飢えた優しげな時代で (スピカ)
美人じゃない魔法もない バカな君が好きさ
途中から変わっても すべて許してやろう (夢追い虫)
うめぼしたべたい
うめぼしたべたい僕は 今すぐ君に会いたい (うめぼし)
君を不幸にできるのは 宇宙でただひとりだけ (8823)
君のおっぱいは世界一 君のおっぱいは世界一
もうこれ以上の生きることの喜びなんていらない
あしたもここで君と会えたらいいな (おっぱい)
ハローハローハロー よろしくね
繋がってる命に甘えて (ガーベラ)
ごめんなさい 理想の世界じゃないけど 大丈夫そうなんで (君は太陽)
明日とか未来のことを 好きになりたいな少しでも (群青)
進化する前に戻って なにもかもに感動しよう
その眼差しに刺さりたい (恋する凡人)
幸せになってな ただ幸せになってな
あの日の涙がネタになるくらいに
間違ったっていいのに ほら こだわりが過ぎて
君がコケないように僕は祈るのだ (子グマ!子グマ!)
現は見つつ 夢から覚めず もう一度 (漣)
終わることなどないのだと 強く思い込んでれば
誰かのせいにしなくても どうにかやっていけます (謝々!)
いつも仲良しでいいよねって言われて でもほんとはブルーになってた
あれは恋だった (仲良し)
憧れたりコケにしたり愛おしい二文字
君の名前つけた人はすごくセンスがいい (ナサケモノ)
猫になりたい 言葉ははかない
消えないようにキズつけてあげるよ (猫になりたい)
君が世界だと気付いた日から 胸の大地は回り始めた (日なたの窓に憧れて)
最低の君を忘れない 悲しい噂は信じない 不死身のビーナス明日も風まかせ (不死身のビーナス)
どうか正夢 君と会えたら
何から話そう 笑ってほしい (正夢)
君に夢中で泣きたい (幻のドラゴン)
抜け出したい気持ちなら桜が咲くたび現れる わかってくれるかな?君なら (三日月ロック その3)
あと歌詞全文書きたいくらいなのはミカンズのテーマ。ぐっと背中を押される。
一人称
スピッツの歌詞は一人称の書き分けがある。わかりやすいのは僕or俺。僕の方が多いけど、俺って言い切る歌詞もある。ちょっと意外かもしれない。俺って言われるとやはりどきっとする。文法が若干変わる感覚すらある。一人称ってすごく大事な要素だ、と思う。
たとえば台本を書くときは一人称には非常に気を遣う。友人がどんな一人称を使っているか気になるし、小説や漫画やアニメのキャラクターの一人称を妙に覚えている。ちょっと珍しい一人称を使っている作品とかたまにあるけど、一人称にキャラクターを頼りきっているとちょっと残念に思ってしまう。ボーイッシュだからといって一人称を「僕」にするとか、あああああああって叫びたい。「わたくし」「拙者」「我輩」「おいら」「あたし」「わらわ」「うち」「自分」「わたくしめ」「あちし」「小生」などなど。その人物の「自己認識の表現」なのか、「他者から見られたい自分自身の演出」なのかを常に見つめる必要がある。たとえば高校の先生、遠藤先生はふだん「俺」で人前に出ると「僕」だった。斎藤先生は「俺」で「私」だった。関先生は「俺」、「僕」と「自分」だったと思う。須藤先生は「僕」と「私」。湯沢先生はすべて「私」だ。
わたしはふだんから「わたし」もしくは「自分」をつかう。たまに、口をついて「ぼく」といってしまうときがある。そういえば昔「ぼくちゃん」と自称していたなとかいう黒歴史はほうっておいて、たぶん、自分自身と距離を取りたいときに無意識にやっているんだろう。違和感によって距離をうむ。少しでも客観的になって傷つかまいとする。ふだん使わない一人称をつかうと乗り切れることがたまにあるよ。参考になる気がしないけど、やってみてね。
選択
好きな物を並べると、「仲の良い友達遍歴」がわかるくらい、人に影響を受けがちだ。たいがいのものはそのとき一番仲が良かった人や好きだった人の好きな物だ。同じ世界見たさに足を踏み入れたパターンが多い。わたし自身が選択したものなんてほとんどない。ひとからの影響でないものは、もはや物心つく前のことだったりして自分で選択などしていない。自分のことを自分で選択できるなんて、ほとんど嘘だと思っているんです。実は。よしもとばななの『キッチン』に確か、そういう一節がある。分かれ道がきて、そのとき自分が選ぶとおもっているけれど、本当はそうじゃなくて、その分かれ道にたどりつくまでの自分の呼吸の積み重ねで、選ばされているし、選択肢など本当は無いんだ、というような内容。自己責任というのは「ひとは自分のことを自分で選択できる」という前提によって成り立つけど、だからわたしは自己責任という概念の簡略な流用をとても憎む。自己選択の場面というのは、実際にはほとんど転がっていないからだ。けっして運命論じゃなくて、自分への外からの力の種類と強さはできるだけ多く知っておいたほうがいいっていう実感がある、そういう話だ。
わたしは「好きな人が好きなもの」で自分が出来上がっているとおもっている。その要素の組み合わせが自分自身だ。この理論だと、生きていくだけでじわじわとわたしの「わたしらしさ」は向上していくことになる。ね。気楽で良いでしょ。自分らしい自分というのはいつだって今ここに存在している君自身に他ならないのだ。
いかがでしょうか。繋がったようで繋がらない、テーマは「一人称と選択とスピッツ」でした。興味をもったひとはとにかく聴いてみてね。そういえば、テーマを募集するよ。よかったらコメントに「滔々と語ってほしいテーマ」をつけてください。必ずしも採用されるとは限りません。あらかじめご了承を。ではでは。今日も、いい夢を。
次のテーマは「アラビア語」です。その次は「エンカウント」です。いい夢をって本文で言ってしまったね。いい朝を。
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