短歌
短歌が好きだ。
去年四月の終わりのある日、Twitterで現代短歌を見かけて、なぜかそのまま大学生協でツバメの横書きB罫ノートを買って、
1人では広すぎる待合室の飲みかけの缶コーヒー甘い
と書き付けた、それから一年近くたって、そのノートが好きな短歌で一冊埋まって、歌集が本棚に並ぶようになった。
短歌が好きだ。
なぜ突然こんなにはまり込んだのかさっぱりわからない。穂村弘さんや東直子さんや柳谷あゆみさんや、虫武一俊さんの歌がとても好きで、もっと言ったら最果タヒさんとか、詩もなのだけれど、なんでだろうとかんがえて、たぶん、その理由は、それらが必然的にまとっている「不穏さ」なんじゃないかなという答えに行き着いた。
31音しかないのだ。短歌は。制作の過程で繰り返し言い換えをして、びっしり並んだたくさんの言葉の中からたった31音を選び、そこだけにマスキングテープを貼って、残りの大部分を白い絵の具で塗りつぶす。テープを剥がして残った31音から、時にはまた言い換えを作る。またマスキングして、塗りつぶす。何回も。こうして作られた短歌は、抽象的な言葉の羅列になる。もしくは、極限まで具象の細部だけを切り取ることになる。白い絵の具の下にある無数の言葉が見えない背景として、そこにはある。でも実際に見えているのは31音の黒い文字だけだ。なにかあるはずなのに、見えない、なにかいる、なにか起こっている、わたしの意志とは別物に蠢く生き物のような感覚、これが不穏さだ。
きっとこれからわたしが勝手なタイミングでぼろぼろと語るだろういくつかの好きなもの・ひとも、不穏だ、という形容動詞がよく似合う。スピッツもベラスケスも杉田智和も不穏だ。ぜんぜん真っ直ぐじゃない。全体像も見えない。清潔な安息なんて与えてくれない。とても、不穏だ。だいすきだ。
ピーマンの切り口君に見せたくて呼び鈴押しにゆく夏の夜(穂村弘)
一度だけ好きと思った一度だけ死ねと思った 非常階段(東直子)
わたしの人生で大太鼓鳴らすひとよ何故いま連打するのだろうか(柳谷あゆみ)
夜景にも質感のあるこの夜をこの夜を忘れるな手のひら(虫武一俊)
シューシューと息白ませて自転車を駆る年末の夜星は無く(野原海)
次回タイトルは「パンシザと本屋」を予定しています
その次は「距離感 その1」を予定しています。よい夢を。
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