同期。はっきりいってめちゃめちゃ恵まれてきたと言ってよい。こんなわたしを受け容れてくれるなんて全員女神か何かだ。いつも迷惑かけてすいません。ほんと好きです。ありがとうございます。
「同期」って存在はほんとうに不思議だ。特に中高の部活の同期。「同期」、としか形容のしようがない存在感だ。間違っても「友達」じゃない。友達じゃないけど、例えば唐突に大切な人挙げてって言われて順に挙げていったときにはどうしても忘れないと思う。それくらい強い影響を受けたし、いまでも受けてるし、嫌われたくないし、でも多分好かれてもいないし、ただたまに心の底から会いたくはなる。
このあいだ、焼き鳥食べて飲んだ時なんてまあひどくて、多分一番ひどいのはわたしであまりの眠さとメンバーの安心感に居酒屋さんでなんと寝てしまったんですけど、起きたら一人はずっとお酒飲みつつ無限に食べてて、一人はケータイいじってて、一人はゲームしてた。なんだろうこの空間。どうしてこれで成り立ってるんだろうって考えておかしくて、ほんと好きだなあと思った。これが許されるとか許されないとか、考えなくてもいいんだとか思っていた。そんな関係性、これから先、誰かと作れる気がしない。重ねてきた時間が特殊で濃すぎる。あのあとのバスキンロビンスの味を、ぼくはたぶん永らく忘れずにいるだろう。
演劇っていうのも不思議。演劇はどうしてあんなにも人の心と心を裸でぶつからせようとするのかしら。部活っていうのも不思議。入れ込んで入れ込んで、「部活の存続」という目標のために自分の持てる力全部注いで、先輩と後輩というなんの損得も絡まない相手をここまで愛して、なんの利益も出なくて、でもそれは結局自分のものすごい動力源になりうるという、こんな世界が資本主義経済なんてどこ吹く風でごまんとある日本の中高っていうのは実に特殊な空間だと思う。変な学校だった、おたくと変人と優しい人がみんな同じに一般人の顔して歩いて平和に一日が終わっていくような、そんな学校、わたしは結局とても愛していたらしい。もう二度と戻りたくはないけど。一秒だって前には戻りたくはない。
同期ってつながりはもっと簡単に消えていくものだと思っていたのに、こんなに普通に自分の中に存在しているだなんておどろきだ。永遠の青春を共有した相手だ。中高6年て長いと思うよ。でも正直言ってね、未だにみんながそれぞれ何を考えているのかなんて全然わかんないんだよね。わかんないんだけどさ。何があろうと「ああ、なんからしいなあ、もうそのわけわかんなささえお前らしい」って言い切れる存在でありたい。全員がわたしを大嫌いでもわたしはにやにやして同期を好きでいたい。ほらな、今ものすごい気持ち悪いなこいつって目をした。傷ついてるけど自意識過剰がやめられない。お前のことなど好きでも嫌いでもないというのは、とりあえず同期にかぎって真理そのものだと思う。好きだろうが嫌いだろうが、「同期」だったのだ。その事実はもう、すごい決定権を持ってぼくたちに迫ってくる。
これから先いろんなひとに会うだろう。大学入ってひとの輪の広さがどーーーんと広がって、ああ楽しいなと思って。でもあんなふうに演劇をできることはもう二度とないと悟った二年間だったよ。わたしはね。好きなひととだけ、気があうひととだけ、趣味が一致するひととだけ関係していればある程度許されるモラトリアムが大学だ。大学で人間力ってつかないわって痛感してる。高校までの蓄積がこんなにものをいうなんて聞いてないぞって思った。わたしは自分の同期とのこれまでに支えられて今生きている、これまじですからね。わたしは一年生の時からクラスに一人劇部員がいて、順に関係を築いていく感じだったけど、そのとき好きになったものとか確実に影響を受けてて、いまだにそれがわたしを形作っている。わたしに「わたし自身」なんてものはたぶん無いんだな。
同期へ。たぶん劇部入ってなかったら絡まないであろう四人。最高でした。これからも最高です。結婚式と葬式に呼んでください。この言葉が、わたしの最高級の執着から発される言葉であることは、同じ言葉を某先生にも言ったことがあるという事実から察してもらえるのではないかと願う。焦がれるほどすきでもトリハダ立つほどきらいでもない同期がぼくは大好きです。
ラジオ頑張って編集します。次回は「一人称と選択とスピッツ」です。その次は「アラビア語」です。
いい夢を。
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