2017年3月8日水曜日

距離感 その1

距離感の例1。
 わたしは中学一年生のときに教科担当してもらっていた先生が大好きで、毎月お手紙を送ったり、学園祭へ会いに行ったり、お誕生日とクリスマスにはご家族の分まで贈り物をしたり、年賀状を持ち歩いていたり、Twitterで相互フォローしていたり、LINEを知っていたりする。その人の言葉や、文字や、振る舞いや、笑い方や、好きなもの、全てが本当にわたしを明るくする。どれだけ学校が辛くても、その先生の担任していたクラスで他愛ない会話を交わすためだけに行く。わたしはいわゆる先生らしくない先生が好きなのだと思う。大学ではアラビア語を習っている先生が大好きだ。なんと元々わたしが知っていた歌人本人だったという驚きの展開も含めて、最高に好きだ。木曜日という辛い1日が先生のおかげで毎度楽しかった。年越しにはアレッポの石鹸を贈った。アドレスを頂いたから、メールするのが楽しみだ。先生方は、必ずしもわたしのそばにいらっしゃる訳じゃないのですが、それでいいんです。わたしの辛い時にもどこかで先生方が先生方らしく、風に吹かれて飄々と生きていればいい。それを思うだけでわたしは生きていける。そういう聖域というか、安全地帯というか、不可侵の存在、それがわたしのもっとも好きなひとたち。


距離感の例2。
 異性との色恋沙汰がさっぱりうまくいかない。うまくいかないし、最近気づいたのは、自分の中に積極性もたいして無い。大学生になって嫌でも考えなければならない恋愛・結婚に伴う「性愛」が、どうしても自分ごととして受け容れられないのだ。男女間の友情は成り立つかという命題は、成り立ってもらわないと困る。今この場で連絡を取って遊びやご飯にサシで誘える男友達は何人もいるけど末長く友人でいたい良い奴ばかりである。みんな好きだ。大好きだ。おもしろい奴らばかりだ。でも恋人は欲しくない。こういうこというと僻みを強がっているように聞こえるのか「それは本当の恋愛を知らないからだ」みたいなことを言われて実に心労だ。ちょっと男子と遊びに行っただけで色恋の噂になるのはうんざりだ。関係性がどれだけ多様に存在するか、もう少しだけ認めて欲しい。でも、「幸せにする」なんて言われても、ありがたいけれど、わたしの幸せは自分で決めるので、ほっておいて欲しいのだ。誠実な人だった元彼から久々に「元気?」と連絡がきたから誠実に返さねばと思い正直に「めちゃめちゃ元気です!毎日幸せです!」と返した、と話したら女友達が絶句した。本当に他意はなかった。反省した。言葉遣いは難しい。総じて、恋愛対象に見られるよりも一緒に仕事をしたいと思われたい。


距離感の例3。
 たまに喩えに出すのだけれど、イメージとして、わたしの頭の中でひとやものはぷかぷかと浮かんでいる。会って話したり、Twitterを見たり、LINEしたり、人づてに何か新しい情報を得たら風船にして、結んでおく。好きでも嫌いでも、近くにいるひとは沢山の風船を引き連れているし、大好きなひとはなにもしなくても風船が増える。関心が薄い人はぼうっとしていると風船をつけるのを忘れるし、どんどん遠くへ行ってしまう。その風船の束全てが「その人」だ。わたしにとって心地よいところもわたしにとって相容れないところも同等に繋がれているから、好き一色にも嫌い一色にもならない。わたしはその中をふらふらと歩んでいる。


距離感の例4。
 ジブリや、先生や、モネや、北斎や、杉田智和さんや、羽生善治さんや、ハリーポッターや、スピッツや、演劇部や、その他いくつかのものやひとは、わたしにとっていわゆる「異論は認めない」存在だ。たいてい信者と言われる。まあそうなんでしょう。全員に布教したい訳でもないし、批判も意見も評論もたくさん聴くが、ただわたしの愛はそれによって微塵も動かないけど悪しからずという意味である。好きというか、もう自分の心の支えだったり心の故郷になってしまっていたりして、否定してしまったら自分の一部を否定するのと同じだから覚悟がいる。ちゃんと見つめなければとは思う。でも、もうだめだと思った瞬間に目の前の一歩を救ってくれるのは、結局この子たちだった。

距離感の例5。
 交際費・時間に糸目をつけないきらいがある。この機会を逃したら、もう一生会えないかもしれないと思ってしまうから。でもタイミングはある。無理やり会わなくちゃみたいなのはない。お互いにタイミングが一致すること、これ自体が縁だ。縁は大事。縁に流されつついきてゆきたい。モットーです。



 わたしの「距離感」を羅列してみて、自分でも、よくわからないなと思う。正確に言うと、わたしが自然にやってきた距離の測り方・取り方が他者にどう受け取られるかがわからないなと思うようになった。わたしはひとが好きだ。動物の中で一番好きだ。いろんなひとがいて毎日本当におもしろい。ただ、この間後輩に言われて心にさくっときたのは「先輩は結局、ひとに好かれる側の人間なんです」という一言だった。自慢でもなんでもなくちょっとビビった。こうしてみると、たしかに積極性がなく受動的なのだ、わたしの距離感は。自意識過剰を許されるなら、この距離感のせいで、これまで何度もまわりのひとを傷つけてきたんだと思う。でもわたしはきっとこの距離感を変えられない。どうにか、じわじわ、恥をかきながら、息を止めても心臓が動くのをやめない限り、苦しくなってまた呼吸をし続けるのだ。
はい。精進します。みなさんご飯いきましょう。また、明日です。



次回は「宮崎駿監督」です。その次は「同期」です。良い夢を。

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