それは予測し得ない出会いであった。私は唐突に「声優さんたち」の存在を撃たれたように認識した。高校三年生の春のことである。
出会ったというよりは出遭わせていただいた、が近い。同期に勧められたラジオをなんの気なしに聴いた瞬間、なにかがカチャンと音を立てて始まってしまったのである。物事に本当にはまり込んだ時、私は無意識であるらしい。気づけば一時期、一日十時間は声優さんがパーソナリティーを務めるラジオ番組やネットラジオ、動画を聴き続ける生活をおくっていた。当時のツイッター文面が恐ろしい。もうその話しかしていない。そもそもアニメをほとんど見ない自分がなぜ声優にはまったのか自分でもよくわからない。名前しか知らないようなアニメの広報用ラジオ(アニラジ)を放浪し、声と名前を一致させ、気になる人がいれば検索をかけてまたラジオを辿り、深夜帯にひとりクスクスと笑う楽しみを覚えた。
そして最大のエンカウントがやってくる。忘れもしない、アニメKのラジオ「KR」第2回を偶然聴いたときだった。メンバーは沢城みゆきさん、宮野真守さん、そして杉田智和さんである。なんだろう、と思ったのだ。なんだろう、すごく気になる。よくわからない、なにもわからないけど、とにかく気になるひと、それが杉田智和さんであった。
杉田さんがパーソナリティを務めるラジオがあるというのでとりあえずつけてみたあの夜の高揚を、私はいつでも思い出せる。びっくりした。助詞しかわからなかったのだ。放送された言葉の中でほぼ分かる単語がないという経験は初めてだった。なんにもわからなかった。わからなかったのに、めちゃくちゃ面白かった。聴いていて心地よくて、笑えて、一瞬で飲み込まれて、あとあと思えばいきなり惚れているじゃないか私よ、要するに私は杉田さんが大好きになってしまったのだった。
杉田智和さんの好きなところといわれると困る。「全部かな」などという痛々しい返事をして大ケガする展開には経験がある。本当に声も芝居も喋りも表情も手の造形も、すべて好きなのだ。なぜかはわからない。でも言葉で説明できる「好きなもの」なんて本当はあんまりない。少なくとも私は。理由もなく突然に琴線に食い込んでくるから恐ろしいのだ、「好き」は。
杉田さんの凄いところをひとつ挙げるとするならば、そのエンターテイナーとしての才覚である。毎度感服してしまう。人が喜ぶことに対する感覚が鋭い人なのだと、思う。私が元気が欲しい時に見る動画がひとつあって、それはデビュー間もない杉田さんが川澄綾子さんの「グッドコミュニケーション」というネットの動画番組にゲストとして呼ばれたときの映像だ。杉田さんはまだ二十歳そこそこであり、初々しさをまとった青年で、ああこんな時期があったのかと思うのもつかの間、登場したなり、いきなりボケをかました。スリッパを投げられるというネタまで仕込んで。心底びっくりした。今も杉田さんがよくやるやつだ!出てきたなり全然違う(架空の)番組の名前を出すあのボケだ!この頃にすでに健在ってどういうことだ?!現場みんな戸惑ってるし!それがもはや面白いし!ああそうか、これを繰り返して、積み重ねて、杉田さんは今のポジションを手に入れたのか。視聴者に印象を残し、さらにわかる人には笑ってもらおうとする、貪欲とすら取れる精神、居場所を掴もうとする努力、そういう意図を感づかせまいとするようなパフォーマンス、その全力さ、全てが胸に迫ってきて、不思議な感動に襲われた。杉田さんはずっと杉田さんだった。この動画を見るたびにどうしてか、自分を信じたくなる。頑張る気力が湧いてくる。いつも私たちを励ましてくれる、杉田さんが好きだ。
最近自覚したが、私は「泣かされる」と弱い。その人の芝居で泣いてしまうと一発で惚れる。ドラマや映画は入り込んで見る割にはどこか冷静なところがあるようで、自分のなかでは「泣く」のはそこそこレアな事態なのである。「泣かされた」作品やイベントはよく覚えている。黒柳徹子さんのエッセイ、山田悠介さんの『スイッチを押すとき』、初野晴さんの『空想オルガン』、中島みゆきさんの「ファイト」、銀魂のイベントの生アフレコ、同期のバンドの文化祭の発表、悠木碧さんのまどか、上坂すみれさんのうろおぼえ劇場、羽海野チカさんの漫画、パンプキンシザーズ、歌集『羽虫群』、スピッツのライブ、夜明け告げるルーの歌、この世界の片隅に、先生の別れの言葉、友人との会話、最後の文化祭、新人公演、リリパットアーミーⅡさんの「ひとり、独りの遊戯」…
杉田さんの言葉や口ぶりで笑うことはそれこそ山ほどあるし、中村悠一さんやマフィア梶田さんといった親しいひととの会話はこちらまで楽しくなる。優しさにホッとする。同時に私は彼の声質に弱い。不意に響く真剣な声、怒りの声、いたわる声、必死で呼ぶ声、弱った声、宥める声、泣き声、怖れる声、堪える声、懇願する声、祈る声、決意した声。声が自分のなかで共鳴し、増幅され、感情の波に一気にさらわれそうになる。単純に言おう。大好きな声だ。
この人を演出してみたい。誰もが圧倒されるようなさらなる魅力を引き出したい。おこがましいことではありますが、はじめてそう思ったのが杉田智和さんという声優だった。
そういう思いに駆られる素晴らしい役者さんは今では杉田さんを筆頭に何人も存じ上げている。中村悠一さん、悠木碧さん、上坂すみれさん、櫻井孝宏さん、石田彰さん、ちょっと挙げきれないたくさんの方々、これからもますます増えていくに違いない。
私の将来の夢の原動力は「子どもたちのふるさとになるようなアニメを」という意思一つではなく、この「声優の芝居が好きだ」という衝動が確実に大きなポジションを占めている。杉田智和さんというひとが生きている時代に生まれて本当に幸運だと自分を誇りたい。星野道夫さんという写真家の言葉を思い出す。念願だった野生のカリブーとはじめて出会ったとき、「間に合った」という不思議な感慨にとらわれたそうだ。私も、間に合った。間に合ったんだ。まだまだいける。ただのファンでいるにはもてあましてしまうくらいの愛である。ただの自負だ。気持ち悪いね。でも嬉しくてたまらない。
「さん」っていちいち呼ぶのは、そのうち一緒にお仕事するって信じているからなんだね。これは願掛けに近い。祈りともいう。意地ともいう。なにがあろうとこれからも、背筋伸ばして生きてくだけよ。
次のテーマは「台詞」です。その次は「観光という産業」です。おやすみなさい。いい夢を。
2017年8月11日金曜日
2017年8月10日木曜日
アラビア語
去年度1年間、大学でアラビア語を習っていた。
はじめに言っておくと、わたしがこれまで学んだ言語の中でもっとも難しかったしもっとも面白かった。言語ってすごい。本当に人の考え方そのものに直結すると思う。
アラビア語の特徴は、なんといっても「文字」そして「語根構造」である。
大半の人々にとって、文字を覚える経験はほとんど記憶にないのではないだろうか。今回のアラビア語で、わたしは文字を覚えるという作業には2段階あることを知った。まず「文字のかたち」を全て覚えること、そして音と「かたち」を結びつけることだ。散々書いてなんとか文字の形を全て覚えても、それが発音できるかどうかは別の話になる。これがすらすらできるようになってくれば話すことは容易いのではないかと思う。これはおそらく英語でも同じだ。すらすら発音ができるということは、文字と音とが完璧に脳内で結びついており反射的に口をついて出てくることがまず第一にあり、さらにいうなら、どのような音の並びの傾向があるかを体が覚えているということである。
アラビア語文法上の最大の特徴が「語根構造」である。じつはアラビア語の文字は基本的に子音しか表現していない。そこに発音記号をつけることで母音を付加するわけだが、アラビア語では子音が非常に重要であることを思うとちょっと納得できてしまう。「語根」とはつまり3つないし4つの子音の組み合わせのことである。ここからあらゆる語が派生してゆくのである。
例えを出す。ここにk t bの3つの子音がある。こうして並べたときこの子音の組は、ニュアンスとして「書く」という意味を持つ。ここに母音や活用を施して、例えばkatabaとするなら意味は「書いた」、kitahbunとするなら「本」。動詞も名詞も形容詞もみんな同じ子音を持ち、ゆるやかに意味で繋がっている。その母音や活用の仕方にもパターンがあり、意味が付与される。多少の語根と文法がわかれば、新しく出てきた単語でもだいたいの意味をとれる。アラビア語はすごい。わたしにとっては初めて出会ったシステムで、その分だけ、世界の見方の方向がぐっと多様化した気がした。
他の言語を知ることは母語以外の思考回路を知るということだ。thatのない世界にいる我々とthatがあらゆる意味を持つ世界にいる人々と、きっと物事の見え方や解釈の仕方が違う。アラビア語は本当に面白い。アラビアの単語は馴染みがなすぎて覚えるのに時間がかかるけれど、一歩一歩踏みしめていけたらと思う。そしていまよりもっと、自由になりたい。
今年の夏は言語をやっています。頑張ります。
はじめに言っておくと、わたしがこれまで学んだ言語の中でもっとも難しかったしもっとも面白かった。言語ってすごい。本当に人の考え方そのものに直結すると思う。
アラビア語の特徴は、なんといっても「文字」そして「語根構造」である。
大半の人々にとって、文字を覚える経験はほとんど記憶にないのではないだろうか。今回のアラビア語で、わたしは文字を覚えるという作業には2段階あることを知った。まず「文字のかたち」を全て覚えること、そして音と「かたち」を結びつけることだ。散々書いてなんとか文字の形を全て覚えても、それが発音できるかどうかは別の話になる。これがすらすらできるようになってくれば話すことは容易いのではないかと思う。これはおそらく英語でも同じだ。すらすら発音ができるということは、文字と音とが完璧に脳内で結びついており反射的に口をついて出てくることがまず第一にあり、さらにいうなら、どのような音の並びの傾向があるかを体が覚えているということである。
アラビア語文法上の最大の特徴が「語根構造」である。じつはアラビア語の文字は基本的に子音しか表現していない。そこに発音記号をつけることで母音を付加するわけだが、アラビア語では子音が非常に重要であることを思うとちょっと納得できてしまう。「語根」とはつまり3つないし4つの子音の組み合わせのことである。ここからあらゆる語が派生してゆくのである。
例えを出す。ここにk t bの3つの子音がある。こうして並べたときこの子音の組は、ニュアンスとして「書く」という意味を持つ。ここに母音や活用を施して、例えばkatabaとするなら意味は「書いた」、kitahbunとするなら「本」。動詞も名詞も形容詞もみんな同じ子音を持ち、ゆるやかに意味で繋がっている。その母音や活用の仕方にもパターンがあり、意味が付与される。多少の語根と文法がわかれば、新しく出てきた単語でもだいたいの意味をとれる。アラビア語はすごい。わたしにとっては初めて出会ったシステムで、その分だけ、世界の見方の方向がぐっと多様化した気がした。
他の言語を知ることは母語以外の思考回路を知るということだ。thatのない世界にいる我々とthatがあらゆる意味を持つ世界にいる人々と、きっと物事の見え方や解釈の仕方が違う。アラビア語は本当に面白い。アラビアの単語は馴染みがなすぎて覚えるのに時間がかかるけれど、一歩一歩踏みしめていけたらと思う。そしていまよりもっと、自由になりたい。
今年の夏は言語をやっています。頑張ります。
次のテーマは「エンカウント」です。その次のテーマは「台詞」です。夏で、夏休みだ。
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